今週は、作品批評は脇において、ラカンの三界説を扱う意味について。

 東は、ラカンの説が実証性を持たないことを前提に、なぜ、それを意識する必要があるかを語る。
 心そのものの働き、たとえば認知科学的な意味ではラカンの説はナンセンスである。だが、特定の時代、背景を反映したものとして見る場合、意味があるかもしれない。

要は、ラカンの「心についての理論」が正しいように見えるのは、そもそも僕たちの社会がラカンの理論が正しく見えるような構造をしているからなのだ、というのが、大学院時代、現代思想界隈の文献を漁り続けた僕が到達したひとつの結論だったのである。

 心そのものは、まぁ時代が変わってもそれほど変化しないだろうが、その時代が映し出す「心の理論」は変化する。そこには、その時代そのものの条件が反映されてるわけで、それを研究する価値はある、ということだろう。

 ハイパーリアリティとその他の話題は以下次号、ということらしい。

 ここまでの議論は非常に明解で、納得できるものだった。
 気になる点を一応書いておく。その時代の「心の理論」は、確かに時代を反映するだろう。一方で、ある「心の理論」が、どこまで現代を反映しているかは、どうやって決めればいいのだろうか?

 たとえば、この日記で、望月がキテレツな精神分析学を開陳したとしよう。そこには望月が生きる現代日本の状況が反映されてはいるだろうが、じゃぁ現代を語るのに「望月理論」が使えるか、というと、まぁ無理だろう。

 じゃぁ、なぜラカンの理論ならOKなのか?

 ラカンの理論が、当時のフランスの教養人あたりの意識を反映しており、その分析に使う、というのなら十分な妥当性を感じる。一方で、それが、21世紀のポストモダン社会全体、また、そこに含まれる現代日本を分析するのに使える理論か、というと、これは、きちんと考える必要がある。

 東は、「ラカンの「心についての理論」が正しいように見えるのは、そもそも僕たちの社会がラカンの理論が正しく見えるような構造をしているからなのだ」と書いた。
 「ラカンの「心についての理論」が正しいように見える人」というのが、たくさんいるなら、それはそうだろうが、実際のところ、どうなんだろう?

 俗流フロイトや、俗流ユングは未だにはびこっている。そこにリアリティを感じる人も多い。一方で、ラカンは、俗流ラカンもなにも、ほとんどの人は知らないし、説明されてリアリティを感じるか、というと、こちらも微妙である。

 ラカンの理論が、十分に一般の支持を集めているのか、そうでないとしたら、ラカンの理論を使う妥当性はあるのか、というのは、きちんと考えなくてはいけない。
 無論、東がやったように、「現代社会の構造」を、先に調べて、それがラカンの理論に適合するというなら、それは一つの見識だ。一方で、現代社会の構造を説明する時に、安直にラカンの理論を持ってくることがあるとすれば、それは循環論法に堕す。そのへんは注意が必要だろう。

 注意すべき点のもう一つは、「正しく見えるラカンの理論」というのは、具体的に、どのあたりまでか、という話だ。
 東も書いているようにラカンの「理論の中身も、アラン・ソーカルとジャン・ブリクモンが『「知」の欺瞞』(岩波書店、2002年)で厳しく指摘したように、無内容な言葉遊びに満ちている」わけだ。
 例えば俺の場合、ラカンの三界説あたりは、(実証は別にして)俗流の理解ではリアリティを感じる。そこは確かに、東の言うように現代社会を反映しているといえるかもしれない。*1
 一方で、それ以外のところは、「トポロジー? なんだそりゃ?」な部分が山ほどある。

 東のような文脈で「ラカンの理論」を使う場合は、具体的に、どこからどこまでを使うのかをきちんと定義づけておく必要があるだろう。

 なにはともあれ、次号に期待、である。

*1:ま、ここまで俗流理解にしちゃうと、別にラカンが最初に言い出したことでもなくなる。認識をシンボルとイメージに分ける発想なんてのは、昔からあったわけで。