その3 メディアミックス戦略の偽善的拡大

 いちばん気になるのがここ。
 東の論拠は以下の通り。

・「イノセンス」はオタ向けマニアック作品であるのに、一般に向けて宣伝された。
・「スチームボーイ」は、大友作品なのに、中身空っぽのダメ作品となってしまった。
・コンテンツビジネスがどうこういっても、イノセンスのような間違えた宣伝は、クリエーターも業界も傷つける。また、大友を持ってきて、テーマのない空っぽの作品を作らせるんほあ、損失である。
・これからは、もっと「クリーエーターを守る」戦略を作らねばならない。

 以上から分かるのは、東ワールドでは、「資本」という概念が欠けている、ということだろう。

 単純に考えて「イノセンス」は、一般受けする映画として企画されたはずである。一般受けするはずだから、大資本が投入されたはずである。監督も、それを理解していたはずである。だから、宣伝も、一般向けに為される。

 それだけのことだ。

 東は「内容と無関係な広告戦略が大規模に汲まれ、メディアも的はずれな方法で期待を煽り、結果として多くの観客の失望を買うことになった」と言う。

 「イノセンス」が、投稿持ち込み漫画か何かだったら、それは、扱う側だけの問題だ。
 でも、「イノセンス」は、多くの資本を投入され、一般受けする映画として作られたのだ。だから、そういう広告戦略は、最初から組まれていたものなわけだ。(東の「イノセンス」評を認めるなら)間違ったのは広告戦略ではなく、そこに着いて来れなかった作品になる。

 誰だって良い映画を作りたいのだ。誰にでも受ける一方で、歴史に残るような評価を持ち、かつ、コンテンツビジネスも潤うような、そんな作品を求めてるのだ。だけど、それは難しい。名作を作るということは、誰であっても難しい。

 そこにおいて、様々な軋轢は、もちろん存在する。無理解な横槍が入って、プロジェクト全体が傷つくこともあるだろう。
 しかし、そんなものは、東に言われるまでもなく、誰もが理解し、何とかしようとしていることである。
 少しでも何かを変えようというなら、結局のところ、自分で業界に入って、自分で責任と権限を勝ち取ってなんとかするしかない。
 無責任な外野の批評は……たいていの場合、無意味だ。

 ま、東は東で、驚愕の解決策を用意している。これだ。

押井は偉大なクリエイターだが、コンテンツビジネスには馴染まないのだ。今後は、このような作家を市場のカンチガイからいかにして隔離するか、「守りの戦略」が必要になるだろう。

 「守りの戦略」。
 これはつまり、「押井は一生低予算で、マニア受け映画撮ってろ」ってことなんですが、東は、そのことを理解してるんですかね?
 予算が高いと、求められる一般性も高い。押井に一般性が欠けてコンテンツビジネスに馴染まないというなら、彼は、低予算マニアック映画を撮るしかない。

 そうでないとすると、どこかから湯水のようにお金が湧いてきて、押井に大量の予算と時間とスタッフを与えて高クオリティの映画を作らせ、採算取れないマニア層に向けてだけ宣伝する、というような、夢物語になるわけだが。
 誰が、その金を出すんですかね。東センセーの印税ですか?

 そもそも「イノセンス」は、冒頭で東が述べたような、「オタク作品を社会に認知」させるべく企画されたものじゃないの?
 それが失敗した、と、言うことはできるけど、最初から失敗を全否定するんじゃ、何もできやしない。

 結局のところ、東の言う「守りの戦略」には、徹頭徹尾意味がない。
 クリエーターを保護しよう、というのが、「一般向け娯楽を作らせるな」というんだから、話にならない。
 「ボクの○○先生は、こんな一般人向けの堕落した作品を作っちゃだめです! お金に惑わされないで、クリエーター魂に目を覚まして!」と、目をキラキラさせていうのは、中学生時代に終わっといてください。