今回は(ようやくというべきか)ハカギックスの内容説明&予告。

 この評論本の編集にあたって、編集部は、1996年の『雫』で始まったひとつの時代――「美少女ゲーム運動」の時代――が、いままさに終わりつつあるという仮説を立てました。

(更科、元長、佐藤氏について)

 僕がこの三人をお呼びしたのは、彼らがみな、美少女ゲーム運動の中核を担った(と編集部が考えている)専門誌『カラフルピュアガール』でコラムの連載経験があり、かつそれぞれ大きく異なった美少女ゲーム観をもっているからです。

 気になる文章は、このあたり。
 いや、そもそも「美少女ゲーム運動」ってナニ?
 多分、佐藤心言うところの「ギャルゲー運動」*1に関係するんだろうけど、説明してくれないと分からないし。
 「美少女ゲーム運動」=「ギャルゲー運動」だとすると、それが、カラフルピュアガール中心だったというのは、よくわからないなぁ。まぁ、それは本文に期待か。

 ていうか、「美少女ゲーム運動」、終わっちゃったんだ。オートマティズムは機能しない? ふーん。

 ちなみに付け加えておくと、僕たちは、この点では無理をして「客観的」になろうとは思いませんでした。あらゆる歴史が捏造として批判可能である以上、この美少女ゲーム運動という「歴史」も、ユーザーの一部から捏造だと強く批判されるかもしれません。リアルタイムで進行するサブカルチャーを総括するというのは、とくに難しいものです。僕た
ちはその難しさを承知しています。しかし、だからこそ僕たちは、できるだけ誠実に、そして精緻に「捏造」を行おうと考えました。美少女ゲーム運動など本当はなかったのかもしれないけれど、現に僕たちはいまそれがあったのだと感じてしまっているのだから、結局、僕たちには、自分たちのその感覚を精緻にデータ化することしかできない――それが編集部の結論でした。その結果として出てきたのが、ここに収録された年表とマップです。

 要するに、これは「俺達の感覚なんだから、文句言わないでね」ってことなんだろうけど。美少女ゲームの歴史を作る際は、意見が分かれて当然だから、それはそれでいいんだけど。

 「あらゆる歴史が捏造として批判可能である以上」「客観的になろうと思わない」というのは、ちょっと、うかつすぎる言いぐさだ。そんな言い方が許されるのなら、ドイツにホロコーストがない、というのも、正当化されちゃう。
 「歴史観」は、さまざまな解釈が入りうるけど、基礎となる事実は、様々な精度で確かめることができるし、その事実の上に歴史を作ろうというのが「客観的であろうとすること」でしょう。

 例のでじこの時*2みたいに事実関係のレベルで間違ってるのは勘弁だなぁ。