なぜメタフィクションを批評するのか

 対談の後編は、なぜ、東浩紀メタフィクション(だけ)を批評するのかについての質疑応答。

東:あまり僕の話はしたくないんですが、一言で言えば、形式に対して自覚的でありながら、にもかかわらず内容=物語を作れる、という行為に興味があるからですね。

 ファウストでも書いていた主張だが、ここで東は、「形式に対して自覚的になると、物語が書けない、書きにくくなる」という前提を持っている。

 違和感を感じるのは、そこだ。

 そもそも、形式に対する自覚がなくて、どうやって、物語を作るのか?
 なんらかの媒体で、人に影響を与えようとすれば、その媒体、形式に対して、作り手は自覚せざるを得ない。あまりにも当たり前の話だ。

 逆に言うと、「形式を自覚しちゃったから、モノ作れないや。てへ!」なんて作り手は、いない。あらゆる作り手は……メタなものもそうでないものも含め……そういう自意識を超えるところから始まる。
 無論、自意識の壁を超えられずに潰れる人もいる。が、別の言い方をすると、それは、昔っからあるハードルである。いつの時代であっても、そのハードルは存在した。

 「形式に対する自覚と、その克服」というテーマは、古い古いものであり、無論、時代ごとに、さまざまな局面を見せている。ただ、そこに歴史があることを理解しないで、「ポストモダンの問題」と短絡させかねない部分が、どうにも、ひっかかるのだ。

 次に、東は、現代では、一義的な誰にでも通じるリアルが崩壊したので、現実を描こうとすると、それ自体がメタフィクションにならざるを得ないとし、それに対する興味を述べる。それに対してツッコミが入る。

阿部:(前略)いわゆる素朴にリアリズム的に書かれた小説の中にも、ある種の形式への自覚をもって書かれた、メタフィクション的な形式性と同等の複雑性をもった作品、もっと複雑なことがなされている小説ってあるはずなんです。

 形式を自覚したから、即、メタフィクションになるわけじゃないし、わかりやすいメタフィクション以外にも、現実に格闘した作品は沢山あるのではないか、という疑問である。
 東の答が抜群に面白い。

東:(前略)僕はむしろそういう作品にこそ関心を向けているつもりです。文学の例から離れますが、僕は以前より、押井守の『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』と庵野秀明の『エヴァンゲリオン』を突出して高く評価する、と言い続けている。それは、なぜかと言えば、両方とも僕の考えるメタリアルな構造をもっているからなわけです。

 えーと……エヴァのラストも、ビューティフル・ドリーマーも、アニメとしては、どっちも、これ以上ないくらい、わかりやすいメタフィクションであって、「素朴にリアリズム的に書かれた」作品とは思えないのですが。
 「うる星やつら」の本編とか、エヴァの壊れる前とか、ああした部分にだって、「ある種の形式への自覚をもって書かれた、メタフィクション的な形式性と同等の複雑性をもった作品、もっと複雑なことがなされている」作品があるんじゃないのかな。
 そういうのを切り捨てていいのかな?

東:『エヴァ』も同じです。僕は、『エヴァ』を観て登場人物に感情移入しているファンだとか、謎本を読んで喜んでいるファンはどうでもいいんです。

 つまり、エヴァの人気を支えた層は、「どうでもいい」と。

僕があの作品に関心があるのは、やはり、あそこまできちんと作り込んでいった物語が最後に見事に破綻し、さまざまな騒動が起こり、その過程で庵野秀明がオタクから離れ劇場版もカルト的でカッコつきの「前衛」的作品になっていく――その捻じ曲がり方に、1990年代の日本でアニメを作ること、消費することのリアリティが凝縮されているからなんですよ。その点では、僕の考える「メタリアル・フィクション」というのは、最初から消費者の受容を取り込んだ概念です。そして、コミケ的でポストモダン的な現実においては、もはやそういう読み方しか成立しえない。

 東氏の考える「コミケ的でポストモダン的な現実」って、ほんの一握りの人の、さらにその生活の、ほんの一部でしかない、というのが俺の意見なわけです。
 それを調べるには、その作品の、どういうところが、どれだけ多くの人間を動かしたか、という定量的な部分を、きちんと見ていくことが重要になると思うわけだが。