ライトノベルを批評するわけ
後半では、東浩紀はライトノベルへの野望を語る。
ラノベに最近、脚光が当たり、それによって、コンテンツビジネスが台頭する。結果、ラノベのコンテンツビジネス=ディズニーランド化に、馴染まない部分が切り捨てられる。
だから、それをすくい上げる批評が必要なんだ、というわけだが……。
ちょっと考えてみよう。
漫画についてだ。
漫画は、ずっと昔から「コンテンツビジネス化=ディズニーランド化」している。アニメにされやすい漫画は、常に求められ、ビジネスとなっている。
では、漫画のバリエーションは、それによって潰れただろうか?
……必ずしもそうはなっていない。
なぜだろうか?
たとえば、ハリウッド級の映画とか、劇場版アニメ大作などは、制作に非常に大量の資金が必要となる。
数十億とか数百億とか使って、売れなかったら、悲惨なことになるのだ。
故に、それらは、リスクの低く、しっかりと売れるモノ、コンテンツビジネスとして安定したものが求められる。
一方、漫画は違う。
一本の漫画(原稿)を完成させるのに必要なお金は、全然ケタが小さい。つまり、売れない漫画を一本載せたところで、会社が傾いたりはしない。
だから、一冊のマンガ雑誌の中には、たいてい、いくつか実験作が入っている。
むしろ、売れるマンガが、バンバンアニメ化して稼いでくれる余分で、実験的なものを含む様々な種類のマンガを発掘し、また、そうした実験作の中から、新たな地平、時代を切り開くマンガが現れたりする、というのが、望ましい方向性だったりする。
ライトノベルのビジネスプランも、実は同じだ。王道作品を出してメディアミックスを狙いつつ、実験作も積極的に出して新たな才能の発掘を狙う。電撃も富士見も、そういう戦略を採っているように見える。
東は言う。
多くの小説がコンテンツビジネスの中で生産されるときに、そこで救えないものをどのように拾っていくか、ということを考えているんです。
逆説的だが、コンテンツビジネスとして儲かる作品が増えれば増えるほど、市場が大きくなればなるほど、異色作、通好み、実験作、批評的価値がある作品が、生かされるのだ。
あるいは、そうなるように、皆、努力しているのだ。
逆に言うと、東浩紀が批評を書いても、それだけで、批評的に優れたライトノベルが増えることは有り得ない。
むしろ、「商業的にはダメだが、批評的に優れてる作品」のほうを、まかりまちがって、編集/作家が優先するようになれば、全体が潰れる。
エンターテイメント業界が、時に、「高尚な批評」を嫌う理由は、そこにある。
あと単純な疑問なんだが、こういうことを書く東浩紀は、「今、売れてなくて埋もれてるけど、実は、とっても素晴らしいライトノベル」というのを、何冊挙げられるんだろう?
いや、そもそもライトノベルを月、何冊読んでるんだろ?
「九十九十九」はライトノベルじゃないし。あれは十分、ビジネスの中で生きてるし。
東:もう少し話を続けると、僕は最近アニメについてほとんど語る気をなくしているのですが、それは要は、日本のアニメがあまりにもガチガチの業界を作り上げていて、批評家の入り込む余地がないからなんですね。
そんな了見でライトノベルなんかに来てほしくないなぁ。