東浩紀は何と言うべきだったか

この世に絶対の真実はない。
アポロは月に着陸してないかもしれない。
ナチスはUFOを作っていたかもしれない。
義経ジンギスカンかもしれない。
世界はトゥルーマンショーやマトリックスかもしれない。

その意味で南京大虐殺ホロコーストだって、存在していなかった可能性はある。


この世に絶対の真実はない以上、言論の場を完全に封殺するのはいけない。
アポロ捏造説もナチスUFO説も義経ジンギスカン説も、それを語ることを完全に禁止するのはよくない。その意味で、南京大虐殺ホロコースト否定論も、言論を完全に禁止することはよくない。


こう言ってくれれば、一貫した立場として納得できるわけだ*1


でも、実際はそうじゃない。
トゥルーマンショー並のでっちあげでなければホロコーストは否定できないというけれど、東氏の言うポストモダン、絶対的な真実の否定は、まさしくトゥルーマンショーですら許容している立場ではないか?


だから批判される。そこをスルーして「みんなポストモダンが分かってない」という。それがダブルスタンダード

*1:ただ、これ、誰に聞いても「そりゃそうだよね。だから?」で済む、特に反対もされないが、だからといって何にもならない意見ではないかと思う。世界がマトリックスである可能性を否定できないというレベルで、南京大虐殺がでっちあげの可能性を否定できないというのは誰しも納得するだろう。同様に、南京大虐殺否定に関するあらゆる言論を禁止しろなんて人もいない

ションベンを飲まずに飲尿療法を否定するなかれ──実感至上主義

あらゆる説には耳を傾ける価値がある

http://www.hirokiazuma.com/archives/000465.html
東浩紀氏の、南京大虐殺に対する話、再び。


講義の速記や対談、雑誌記事などは、どうしても本人以外の編集が入るので、東氏自身がどう思ってるかは気になっていたのだが。
結論は、「これはひどい」だった。


この記事の、前半は理解できる。

A.いまの日本社会に、南京大虐殺があったと断言するひとと、なかったと断言するひとがそれぞれかなりのボリュームでいるのは事実である(この場合の南京大虐殺は例)。

B.ポストモダニズム系リベラルの理論家は、「公共空間の言論は開かれていて絶対的真実はない」と随所で主張している。

C.だとすれば。ポストモダニズム系リベラルは、たとえその信条が私的にどれほど許し難かったとしても、南京大虐殺がなかったと断言するひとの声に耳を傾ける、少なくともその声に場所を与える必要があるはずである(この場合の「耳を傾ける」=「同意する」ではない)。

この場合、前の記事でも書いたように、「南京大虐殺否定説」は、「信長宇宙人説」でもいい。
どんな馬鹿げた話であっても、「絶対的真実はない」という観点からは、耳を傾ける必要がある、というのは、一つの立場だ。大変だと思うけど、それを貫くのは理解できる。


その文脈で、南京大虐殺の否定派にも、言論の場所を、というのは大変納得できる。
ただし、繰り返して言うが、その立場は、「地球平面説」でも「信長宇宙人説」でも、どんなくだらない説に対しても、「耳を傾ける」立場であることを強調しなければ、特定の論に肩入れする印象を与えることになる。


これまでの議論を問題視してるのは、仮にも学者が、そうした印象を与えていることだ。
で、後半が、すごいことになる。

ガス室南京大虐殺

だから、きわめて私的な印象として、ガス室の有無はぼくとしては疑いえない。そりゃむろん、ポーランドのクラコフ郊外にあるあの膨大な敷地がすべて偽物でトゥルーマン・ショーだったといわれればどうしようもないけれど、そうでないかぎりで疑いえない。けれど、南京大虐殺の有無についてはそのような強い実感がない。

後半ではこのように、「南京大虐殺は、ガス室ほど確かさの実感を感じない」とか言い出すのだ。


東氏は、南京大虐殺問題に関する無数の資料、無数の研究を無視した発言をしている。
それを無視していいのは「織田信長宇宙人説も地球平面説も南京大虐殺否定もホロコースト否定も、等しく耳を傾ける価値はある」という場合、のみだ。


そうでなくて、「ホロコーストはありそうだけど、南京大虐殺はどうかな?」というのを、資料を無視して口にするのは、最悪のダブルスタンダード、最低のデマゴーグだ。
それが許されるなら、どんなトンデモ説も気分で擁護して、立場と言い張ることができる。

以上、これは基本的には本題に関係がない、というより、むしろますますぼくへの不信感を呼び、こんどはこっちの文章が根拠に叩かれるかもしれない私的な感想ですが、ぼくがただ適当に南京大虐殺の例を挙げていると思われたらいやなので、書いておきます。それに、歴史的真実が云々というのならば、ぼくにとっては、まず20歳代のときの以上の体験が「真実」です。

いやだって、本題と関係ない話を言う意味がわからないし、不信感あるし。
自分の体験=真実って、どんだけナイブーな話なのよ。

学者が実感で物を語っていいはずがない。
個人の感覚、実感は大切だけど、実感と正しさは、必ずしも関係ない。
「地球が丸い」と実感できてるやつが何人いるかって話だ。
研究者が「俺ってあんまり地球は丸いって実感できないんだよね。やっぱ平らなんじゃね? それが俺の真実」と言ったら、バカにされるだろう。


無論、ここで言ってる真実は、そういう意味の真実ではなく、カッコつきの真実だ、と、言いたいんだろうけど、じゃぁその「カッコつきの真実」って何の意味があるの?
無知と偏見の正当化以外の意味があるの?

おまえらはちゃんとションベン飲んだのか?

それにしても、前々から思っていたのだけど、右でも左でも、ネットや2ちゃんねる歴史認識問題についてアツく語っているひとの、どれくらいが強制収容所のあととか南京の資料館とかに足を運んでいるのでしょうか。

要するに、「おまえらと違って、俺は、ちゃんと南京資料館行ったんだ」と言いたいんだろうけれど。


自分の「実感」だけを頼りにえらそうに語るなら、あらゆる学説は無意味になる。
飲尿療法で「ションベン飲んだが俺は効いた実感があった! 飲尿療法をアツく語ってる人の、どれくらいがちゃんとションベンを飲んだのでしょうか?」と言ってるのと同じだ。


私は、南京資料館にいって「ポストモダン的に南京大虐殺は実感を感じない」とか言う人よりも、日本で本や資料を読んで「南京大虐殺の否定は、おかしい」という人のほうが尊敬できる。

自分の目で見て、自分の目を信じるな

文字情報の相対性や弱さに単純に無自覚なように見えてならない。「リアルのゆくえ」でぼくがいったのは、そんなふうに文字情報ばかりで構成された世界観など、文字情報によってすぐひっくりかえるのだから、少しはみな自重したほうがいいのではないか、ということです。

いやもう空いた口がふさがらない。この人、本当に学者なんだろうか。


南京大虐殺について、たいした知識もないのに誰かの発言を鵜呑みにして、東氏を叩いてる人がいるとして、そういう人が「危うい」「自重すべき」ということを言いたいのだろう。
そこには一理ある。


ただ、それを言うなら、東氏が、学者の立場からテキトーな発言をするせいで起きる政治的な結果に対して、あまりに無神経だというのことに気づいてほしい。


次に、「文字情報の相対性や弱さ」と言うのは、あまりに糞味噌だ。
文字情報が相対的で弱いとして、じゃぁ、絶対的で強い情報って何よ?


「俺は幽霊を見た!」とか「あの人は私を愛している! だってテレビの向こうから私だけに暗合で語りかけて来るのよ!」というのは、強い実感を伴って、ある意味、絶対的だろうが、やっぱりそれは、事実としてはおかしいわけで。


「自分の目で確かめろ」というのは大切だが「自分の目も信じるな」というのは学問の基本中の基本だろ?
学問というのは、その基盤の弱さを自覚しつつも、少しずつ少しずつ客観性を練り上げて積み重ねてきた営為なのであって、それを一律に否定するようなことを言う学者は、頭を冷やしたほうがいい。

解釈ゲームと織田信長宇宙人説

全ては解釈ゲーム……か?

http://d.hatena.ne.jp/nitar/20081114#p1

南京大虐殺について僕はあると思っている
しかしあるという奴とないという奴がいてこれを調整するのは不可能
いくらでも理論武装することは可能
この世界で公共性を考えるなら、まずあるいう奴とないという奴がいるんだ、ということからはじめないといけない


デリダを通ってしまうと、歴史的真実とか言えなくなる
言うということはデリダを裏切る
左翼とかポストモダニストが言っていたことはそういうこと


これは非常に難しい問題
従軍慰安婦は、軍の命令なんかはなかったんじゃないか
南京大虐殺は、あっただろうけど規模は小さかったんじゃないか
全ては解釈ゲーム
東浩紀ポストモダンと情報社会」2008年度第6回

(nitar氏が書かれた講義記録より抜粋)
・いくらでも理論武装することは可能
・全ては解釈ゲーム
・歴史的真実なんてない


こういうワードで、「南京大虐殺」の肯定と否定が相対化されている。
一見、正しそうに見える。だが、そうだろうか?


ここでの東氏の発言は、「南京大虐殺」に関する具体的な調査を一切前提としていない。故に、歴史上のあらゆる説に対して適用できる。


例えば、俺が「織田信長は、人類史を背後から操作する宇宙人であり、ローゼンクロイツ頭領の生まれ変わりで、ヒットラーもナポレオンもアレキサンダーも全部織田信長であり、全ては第七十五次元の精神生命体ミュルミュルボヒュンガーの手駒である」と言ったとしよう。
この説にも、上記は適用できるのだ。


この説が間違いであると完全に証明することはできない。
好きなだけ理論武装することだってできる。
語の意味を拡大解釈して様々な意味に取ることもできる。
織田信長宇宙人説を信じる人を完全に消し去ることもできないだろう。


で、「織田信長宇宙人説」は、真面目に取り合う価値はあるだろうか?
……普通は無いだろう。


歴史的真実が存在しない、というのは「織田信長宇宙人説」をも認めるということだ。
もちろん、「織田信長宇宙人説を含め、どんなトンデモも珍説も含め、あらゆる歴史が解釈として存在しうる」という立場もある。
ただ、東が言いたいのが、そこまで全てを相対化する視点なのであれば、南京大虐殺を持ち出すべきではなかった。

程度問題あるいはダブルスタンダード

ポストモダンの立場から、あらゆる歴史観を相対的に見るのなら「南京大虐殺が無かった」も「織田信長は宇宙人」も同程度に正しいという話になる。
それならそれでいいが、そうわかるように書くべきだ。


そうではなくて、「織田信長宇宙人説はいくらなんでもひどいよ」という話なら、各仮説には、様々な意味での正しさについてランクの違いがあるということだ。ランクの違いを認めるなら、当然、「南京大虐殺の肯定」「南京大虐殺の否定」の正しさも、きちんとランクをつけて語るべきだ。


講義ノートを信じるなら、東は、「南京大虐殺は無かった」ということを「いくらでも理論武装することは可能」と書いている。
理論武装する「だけ」なら、「織田信長宇宙人説」だって理論武装できるわけだから、この文章は、厳密に論理的な意味では間違いではない。
とはいえ、「織田信長宇宙人説」の理論武装は、まぁ、何をどうやっても、飛躍だらけのうさんくさいシロモノになるだろう。


「いくらでも理論武装することは可能」を普通の日本語として捉えるのなら、これは「いくらでも説得力のある理論武装ができる」という意味になる。
さて、南京大虐殺否定派の理論は、説得力のある理論武装をしているだろうか? 私はしていないと考える。


さて、東氏が「肯定否定、どっちに転んでもおかしくないくらいに、よほどの専門家でないとわからない理論武装が存在している」と言いたいのなら、それは明白に間違いだし、無神経すぎる議論だ。
そうでなくて「どっちかは一目瞭然だけど、それでも揉める」というなら、そう分かるように書くべきだ。


無論、専門家からすれば明々白々でも、ぱっと見では、正しいかどうか素人にわからない、とか、議論が長すぎていちいち追う気がしない、という問題はあるだろう。


で、そこの見通しを良くするのも、専門家の仕事である。


http://d.hatena.ne.jp/motidukisigeru/20081119#p1
「不完全な情報で判断を下すということ」で書いた通り、物理学を極めなくても「水からの伝言」がおかしいと理解することはできる。
南京大虐殺が無かったは、ウソ」も、歴史学的センス、見方のコツを理解することで、専門家でなくても、おかしいと理解できる。


「歴史的真実は存在しない」と言い放ってしまうのは、そういう努力をしないことの言い訳に思えてならない。

科学とニセ科学と宗教

ニセ科学とか科学とかの話で、「科学も宗教の一つじゃないか」とか「科学と宗教を一緒にするな」とか「ニセ科学は宗教の一種で、文句を言われる筋合いはない」と言ったような発言を見かける。


そういった発言の中で、宗教が「盲信」「狂信」とか「思考停止」の意味で使われていることがあるが、それはちょっと違うと言いたい。


宗教が何も考えていないかというと、そういうことはない。


宗教と言っても色々あるが、例えば、世界の三大宗教と呼ばれるものは、何が善で何が悪か、人はどう生きるべきか、ということについて、長年、悩み、考えてきた。今も、考えている。
その中から学べることは、実に多い。


宗教は、少なくとも過去においては「世界がどうなっているか」についての回答を与えていたことがある。そうした回答が、科学によって覆されたこともある。
それらについても、多くの宗教は悩みながらも誠実な回答を出している。
例えば、ローマ法王、すなわちカトリック教会は、進化論を認めている。


その上で、もちろん宗教は、学問そのものではない。
ではないが、「何も考えずに何かを信じること」の代名詞に宗教を使うことには慎重になってほしい、と、思った。

程度問題あるいは糞味噌一緒

こちらの記事を読んで、はてブコメントをつけたところ、反論のエントリをいただいた。
・元記事
http://d.hatena.ne.jp/magician-of-posthuman/20081116/1226794244

2008年11月18日 motidukisigeru これはひどい 科学か疑似科学は専門家でないと区別つかないというのを前提にしてるようだが、ちょっとした常識+α程度で簡単に判断できることも多いんだから、それを広めようよ。

・反論のエントリ
http://d.hatena.ne.jp/magician-of-posthuman/20081121/1227240502
さて「ちょっとした常識+α」に関して、エントリ「不完全な情報で判断を下すということ」というエントリをあげた。このエントリ自体は、元記事に対する直接の反論ではないので、おっしゃる通りの不十分さがある。
そこで、元記事自体に関する反論をしたためてみた。

なんちゃって理解は肯定できない

似非科学対策としての「なんちゃって理解」を実現できないか - 狐の王国』の問題提起は非常に示唆に富むものだった。盲点の無い観察は無い。したがって、何が複雑なのかもわからないほどに複雑な情報や知を前にしては、「なんちゃって」理解することと「嘘を吐いて」理解させることが効果的に重要な選択となる。

まずはここからだ。
「何が複雑なのかもわからないほどに複雑な情報や知」に対して「なんちゃって」「嘘を吐いて」「自覚のないメタファー」を使うことが、「効果的に重要な選択」とされている。


「何が複雑なのかもわからないほどに複雑な情報や知」に対して、かつ、それに対処しなければならない場合、どうするか、というのは、悩ましい問題である。
ではあるが……。
似非科学」は、果たして「何が複雑なのかもわからないほどに複雑な情報や知」なのだろうか?
水からの伝言」が科学的におかしいことを判断するのに、「何が複雑なのかもわからないほどに複雑な情報や知」は必要だろうか?
「なんちゃって」「嘘」「メタファー」は必要だろうか?


俺は必要じゃないと思う。そのことは、前回の記事で書いたとおりだ。
もちろん、理解とは何か? という話はあって、「専門家による完璧な理解」とかを前提とした場合、素人の理解に、過剰な単純化、メタファーを通じた理解がまじら無いとは言えない。ただ、それは程度問題だ。「メタファーのまったくない完璧な理解」みたいなのを前提にすれば、あらゆる理解は不完全だが、別に完全である必要はなかろう。不完全にも程度と質がある、というのが前提でね。


似非科学の中で、本当に精巧に科学に偽装して、複数の分野の専門家が本気で考えないと反証が難しいようなものがあったら、氏の言ってることは有効かもしれない。
で、「何が複雑なのかもわからないほどに複雑な情報や知」を必要とする似非科学の実例は、何だろうか?

無知な弱者はどのくらい無知か?

無知な弱者」が、一方では科学を信仰するあまりに疑似科学に騙され、他方では疑似科学を批判するあまりに科学に騙されるという循環を辿っていると考えている。「無知な弱者」でも確かに一定程度は疑似科学を見抜き否定することが可能だろう。しかし、「無知な弱者」が疑似科学批判に依拠するのは、科学である。しかしながら、その当の科学が<マッド・サイエンス>か否かを見抜くことは、「無知な弱者」には不可能だ。

これも程度問題だ。科学に詳しくない人でも「マッドサイエンス」か否かを見抜くことは、詳しくないなりに可能だ。また、自衛のための知識を身につけ、経験を積むことで、少しずつ詳しくなれるだろう。


無論、「無知な弱者」を、例えば、平均的な幼稚園生とするなら、そりゃ難しい話を分かってもらうのは、大変かもしれないが、ここでも要するに程度問題である。


疑似科学が十分に複雑なら、受け手が十分に無知なら、確かに、理解することは不可能だろう。ただそれは「理解できない人には理解できない」というトートロジーに過ぎない。
そういう疑似科学、そういう受け手ばかりではない。また、受け手に応じた説明があるだろう。

解決には解決に伴う問題があるから何もしない?

 リスクと危険の区別から考察を出発させる我々は、いわゆる「リスク・コミュニケーション」といったマネジメントには没入しない。(中略)
 次のように言い換えることもできる。問題解決は、派生的な問題を常に生み出す、と。問題発見とは、発見可能な問題を発見しているに過ぎない。問題解決とは、問題解決されるべき問題解決なのだ。

リスクを減らそうとする行動にも、リスクはある。
問題解決が派生的な問題を生み出すことはある。
その通りだ。
では、問題解決しないべきか?
氏の家が燃えていたとする。
消火するという行為は問題解決であるが故に、派生的な問題を生み出す。
であるなら、火を消さないで隣家巻き込んで焼け死ぬか。
そういうことではないだろう。


片方に「明らかにやるべきこと(燃えてる家の火を消す)」があり、片方に「やったほうがマシかどうかわからないこと」があって、それらの程度をどう見分けるか、どういう時にどうするか、という考えが大事なのだ。
であって、一律に否定するのは意味がない。

無限後退は別にしていない

 こうした巨匠の失敗例からもわかるように、疑似科学批判という脱魔術的な振舞いは、逆説的にも、終わりの無い脱魔術化の追求という魔術的な呪縛を構成することになる。『(改題)トンデモ水ビジネスの片棒を担いでしまったはてな匿名ダイアリー - E.L.H. Electric Lover Hinagiku』のような脱魔術的な振舞いも、常日頃継続されている訳ではないだろう。何処かで停止しなければならない。さもなければ無限後退だ。しかし皮肉なことに、その停止点において、宗教が機能する。「人間が自分の宗教の教義のおかげでどんなに大きな負担軽減を体験するか、容易に判るであろう。教義は、解答できない問いの、無限に続く堂々めぐりを防止してくれるのだ」[7]。疑似科学批判者たちにとっては屈辱的かもしれないが、機能等価主義、免疫論理学、負担免除論、埋め合わせ論は、冷徹にこう述べるだろう。宗教は、学術の負担を免除する機能的等価物だと。

何が疑似科学で、何がそうでないか。何が科学的に正しくて、何がそうでないかを、無限に追求していこうとすると、様々な哲学的問題や矛盾が生じる。もしかしたら、そこに宗教が必要とされるかもしれない。


でもさ、誰も、そんなことやってないよね?
「創生水って変じゃない?」「水からの伝言って変じゃない?」というのは、科学の科学性を無限に追求してるわけじゃない。
無限後退してるのは氏であって、それ以外ではない。

むしろここでは、疑似科学批判の危険を指摘することによって、疑似科学批判者たちに止めを刺すことにしよう。

 注意しなければならないのは、より厳密かつ正確に疑似科学批判に取り組もうとすれば、ますます「無知な弱者」には到底理解できない科学的領域に踏み込むことになるということだ。

「より厳密かつ正確に疑似科学批判」というのを追求すれば、確かに、専門家以外にわからない領域にゆくだろう。それはそうだ。でも、別に、専門家以外にわからない議論をしなくても、疑似科学批判をすることはできて、それは十分に有効だ。
それがなぜ「疑似科学批判者に止めを刺す」ことになるのかな?

「これこそが科学だ!」こう述べることによって、非科学の領域に位置付けされた疑似科学を追放することができる訳だ。たとえば『(改題)トンデモ水ビジネスの片棒を担いでしまったはてな匿名ダイアリー - E.L.H. Electric Lover Hinagiku』について言えば、どうやら客観的なデータが不足しているということが、批判の矛先になっているようだ。つまり、「客観的なデータが充実している記事こそが科学だ!」ということなのであろう――それ以外は何も言っていないのだけれども。

「これこそが科学だ!」という主張をしてるわけではない。例えば、客観的なデータが充実してさえいれば科学だ、ということはない。
でも、客観的なデータ抜きで、効能を言うのは、科学ではない、というか、常識的におかしい。
てかさ、「この水は、すごく効くよ。効いたって人のデータは全くないんだけどね」って言われたら、うさんくさいと思うよね。
科学的な常識と、一般人の常識が合致するレベルで、十分に否定できるのだ。
完全に否定できるかは完全さの定義によるが、少なくとも「怪しい」くらいのことは判断できるだろう。そして、そういう物の考え方、ノウハウを伝えるのは重要だ。

科学と科学技術

さてさて、ここから氏は、科学の権威を強調することで、「無知な弱者」が「科学に騙される」危険を問題視する。
科学に騙される、とは、なんだろう?

しかし、科学的なビジネスもまた、考え様によっては害悪である。たとえば『知のデザインとしてのメタファー - ポスト・ヒューマンの魔術師』や『生政治と「心脳マーケティング」の接続可能性(1) - ポスト・ヒューマンの魔術師』で取り上げている「心脳マーケティング」は、消費者の心や脳を機能的に方向付けることによって、商売して行こうという話だ。このように述べただけではピンと来ないかもしれないだろうから、もう少しわかり易い事例を挙げてみよう。たとえば『生政治の生権力を無自覚に受け入れる「人間」たち - ポスト・ヒューマンの魔術師』で取り上げたような、「動物化」、「自己家畜化」、「マクドナルド化」、あるいは「生権力」など、これらは「心脳マーケティング」同様に、人間の心や脳を機能的に方向付けることによって、利益や権力を好都合に操作していこうとするスタンスである。言い換えれば、我々の欲望や欲求を<科学的に>方向付けるシステムなのだ。

なるほど。疑似科学ではない科学技術の成果にも問題があるものがある、という話か。どうやらこの人は「科学」と「科学技術」を区別できていないようだ。


疑似科学」が、科学的におかしいから排除されるべきである、というのなら、科学的に正しい技術を用いたものは、全部受け入れるべきであるか?
無論、そんなことはない。
「科学的に正しい」と「科学的に正しい技術は全部受け入れるべき」は、全く違う話だ。


「科学的に正しい」という批判をすることに、そういう副作用が伴う、というのは理解できるが、だからといって、そういう間違いをする人がいるから、「科学的に正しい」を言ってはいかん、ということになると、これもまた程度問題だ。

別にパラドクスじゃない

我々は、疑似科学を警戒すれば、科学に騙される。科学を警戒すれば、疑似科学に騙される。「だからパラドクスなのだ。いかなる努力をもってしても、開始し始めたその所で――つまり解き放たれたと思った問題において――再び終りが理解される」[13]。

疑似科学を警戒しようとすると、科学に騙されやすくなる。
科学を警戒すれば、疑似科学に騙されやすくなる。
ここまでは正しい。


が、それは「科学的に正しいかそうでないか」「倫理的かそうでないか」を、別々のものと理解し、両方の知識を得ることで、両方に対応できる。
別にパラドックスでもなんでもない。


さて「倫理的とはどういうことか」というのを、つきつめると、長い長い議論になる。何度も書くが、これも程度問題だ。「人殺しは、おおむね、よくない」とか「嘘は、おおむね、よくない」という素朴なレベルで、理解、合意に至れる程度のことも多い。例えば、「創生水」が詐欺だったとして、「これはいかんよね」というのは、普通に合意できる話だろう。

疑似科学批判とは何か

疑似科学批判の副作用として、科学的に正しければ何でも受け入れるという風潮を作る可能性がある」というのは、卓見であり、疑似科学批判者は気をつけるべきだろう。


ただ、疑似科学批判をしている人のほとんどは、単に「科学的に正しい/おかしい」を問題にしているのではなくて、「これがおかしいって気づこうよ」つまり「みんなが自分で考えられる」ことを目指している。


「科学的な態度」には「科学は価値判断をしない」というものも含まれる。
だから、「科学的な技術だから受け入れるべき」というのも、科学の権威にタダ乗りしようとする、広義のニセ科学であり、批判の対象だ。


もちろん、人それぞれなので疑似科学を批判してる人の中に科学権威主義的な人がいないとは言わないが、少なくとも「疑似科学批判=科学権威主義」というのは成り立たない。

程度問題

この記事で、なんども程度問題と書いた。要するに、こういうことだ。


さて、ある物Aがあるとする。
極限的な状況を想定することで、Aが無意味だったり害悪だったりする場合を考えられるだろう。それによってAを批判したり、「相対化」したりする論法がある。


この論法を濫用すると、なんでも簡単に否定できる。
例えば、「この薬はこの病気に効く」という人に「沢山飲み過ぎると中毒する! だから毒でもある」と言って「そもそも薬と毒は同じものだ」とか言うわけだ。
こういうのを程度問題という。薬に毒の側面があることは確かだが、それは別に、その薬を適切に使うと病気が治りやすくなる場合が多い、というのを否定するものではない。


極限状況を考えることは大切であるが、極限の話を簡単に一般論に結びつけてはいけない。それこそ「糞味噌一緒」というものだ。

不完全な情報で判断を下すということ

ちょっと東浩紀から飛んで、違う話題を。
http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20081113/1226560216
Google Adsenseに、クラスター水の広告が載ったことをきっかけに始まった、疑似科学批判と疑似科学批判批判のあたりを読んで気になったことがいくつかあった。


http://d.hatena.ne.jp/chnpk/20081115/1226722771
このあたりから始まった議論で、よく見かけた意見が、「専門家には疑似科学かどうか判断できるのかもしれないが、素人には判断する知識も手間暇もない。とすると、科学/疑似科学の区別は、結局は宗教と同じく、信じるかどうかということにならないか?」という話だ。


説得力のある意見だが、ここには抜けている考え方がある。
それは「専門知識が必要かどうかは程度問題」という話だ。

人はビルから落ちない

例えば、「人はビルから落ちても死なない」という意見があったとしよう。


果たして、これが正しいかどうかを判断するのに、専門家の知識はいるだろうか?


人がビルから落ちた場合、何が起きるか、は、様々な専門家の研究対象となる。落下と衝突が人体に及ぼす影響について、人体生理学の専門家、空気抵抗について流体力学の専門家、重力について理論物理の専門家。その他様々な専門家が様々な視点から研究できるだろう。


でもまぁ、専門家の話を聞くまでもなく「落ちたら死ぬだろう、普通」というのは判断できる(よね?)。


「ビル落下」について専門家並みの知見がないにしても、死にたくなければビルから飛び降りるのは止めておこう、という判断をするのには支障がない。

完全な情報などない

人間、「完全な情報」というものを得られることは滅多にない。
だから、我々は、不完全な情報に基づいて判断している。
不完全な情報で、的確な判断をするテクニックというのは存在している。


例えば先ほどの「ビルから落下すると死ぬ。痛い」についてだが。


・支えのないところで物を放すと落ちる。
・落ちると衝撃を受ける。
・高いところから落ちれば落ちるほど衝撃は強くなる。
・ビルから落ちて死んだ人の報道を見た。


このへんを理解していれば、「ビルから落ちるのは健康に良くなさそうだ」というのは理解できるだろう。


・重力とは何で、どのように働いているのか。
・人体が空気中を自由落下する時、どんな風に落ちるか
・落ちてきた後、どう地面に接触するか
接触して、どのように破壊されてゆくか
・最終的に、どのように死に至るのか。


このへんの細部とかは、考えれば考えるほど大変な問題で、もの凄い量の研究が必要となるが、別に知らなくても、判断するのに支障がないわけだ。


「専門家でなければわからない。素人にはわからない」というのは、「ビルから落ちて死ぬかどうかは専門家でなければわからない」と言ってるのと同じだ。


「ビルから落ちたらどうなるか」は誰でもわかるが、無論、誰でもわからない問題もある。
不完全な情報から、常に、正しい結論を導けるわけではない。「わからない」と結論するしかないこともあるし、間違えることもあるだろう。
とはいえ、どうせ世の中「完全な情報」なんてのはないんだから、不完全な情報から、どう行動するか、というのが大切なのは言うまでもない。


不完全な情報に基づいて、的確な判断を行うテクニック、そのための考え方というのは、疑似科学/科学を見分けるためにも、使うことができる。

科学は正しさを完全に保証したりしない

というか、そもそも科学だって「完全な情報」とか「完全な真偽」なんてものは、問題にしていない。
100%完璧に正しい判断など人間にできるものではない。


そもそも科学は、人間が、科学者が、不完全で、善意であっても間違いをおかしやすい、という前提に基づいて作られている。だから、新しい概念に、徹底的にツッコミを入れ合って検証するという手続きを導入している。


そうやって検証を経た観察や理論を積み重ねて、「このへんは、色々な角度から何度も確かめたから、かなり確実」「このへんも、まぁ大丈夫だと思う」「このへんは、かなり怪しい」「このへんは、全然わからん」という風に知見を積み重ねてきたものなのだ。

基礎と応用

「落ちると痛い」「高いところから落ちるともっと痛い」
これだけ知っていれば、「ビルから落ちると死ぬ」を判断するには困らない。


何でもそうだが、「基本的で応用範囲の広い原則」を理解していれば、細部が分からなくても、怪しいかどうかは判断できる。怪しいと思ったら評価を保留したり細かいところを調べたり専門家の意見を聞いたりすればいい。


もちろん、それで勘違いや間違いをすることもあるだろう。でも、最初から「どうせ素人が調べるには難しすぎる」と投げ出すよりはずいぶんマシで、効率的だ。


なお、「基本的で応用範囲の広い原則」から入るのは、専門家だって同じだ。
専門家だって、何かが正しいかどうかを判断する時に、いきなり枝葉末節の細かいところから入ったりはしない。まずは、自分が理解してる基本的な法則と照らし合わせて、大ざっぱに検証し、そこから必要に応じて細かいところを検証してゆくものだ。


専門家の話を聞く時は、そのように「どこから最初に目をつけるか」を注意すると、役に立つだろう。

科学と疑似科学の見分け方

科学の場合も、「基本的で応用範囲の広い原則」は色々ある。

エネルギー保存則

これは「ゼロからエネルギーは生まれないよ」という話で、無動力で動くような永久機関とかは存在し得ないよ、という話だ。


これは色々な科学者が色々な分野であらゆる方面から検証を重ねてきた話で、「ビルから落ちると人は死ぬ」よりも、ずっと確実な話だ。


これを、無視してるような物があったら疑似科学である可能性は限りなく高い。

都合が良すぎる

疑似科学によくあるもの、その1。


例えば「科学的に新しい効果を発見した」は、いいとして、それが癌やら何やらとにかく何でも効く、とかだ。


人間の身体というのは機械である。あちらをいじれば、こちらに影響が出るものである。違った症状には違った原因があり違った対処が必要となる。


一個のもので、何もかも効く、というのは、都合が良すぎる。


そのように、一個の発見が、人間にとって都合の良すぎる効果を、たくさん発揮する、というのが主張されているものは、かなり怪しい。


その説明に「生命エネルギー」とかそういうものを持ってくるものがあれば、疑似科学である可能性は限りなく高い。

精神エネルギー

同様に疑似科学に、よくあるのが、「念」やら「気」やら「精神」やらが物質に影響する、というもの。現代科学で、そういう仕組みは今のところ見つかっていない。


いないにも関わらず「心の力が分子に影響を及ぼして」みたいなことを言うのも、疑似科学である可能性が高い。


さて、「精神の力が存在しないと、最初から決めつけるのは非科学的ではないか?」という批判があるだろう。
それは、その通り。だが……

気が早すぎる

ここで疑似科学を見つける三番目「気が早すぎる」がある。


仮に、精神が物質に何かの影響を及ぼす証拠を見つけたとする。であるなら、まず、それを、学会に発表すべきだ。

発表内容が妥当なら、色々な人がそれを追実験してくれるだろう。その結果、「おお、確かにその通り」という答えがどんどん返ってくれば、「精神が物質に影響を及ぼす」というのは科学的な事実に近づく。


なんだが、そういうステップを踏まずに「精神が物質に影響を与えるので、この靴下はすごい」とか「この写真集はすごい」みたいに、いきなり結論を押しつけて、製品化してしまう。


それはいくら何でも「気が早すぎる」というものだ。そういうことをするのは、科学的な検証に耐える自信がないから、それを避けているか、そもそも科学的な検証の大切さを理解していない可能性が非常に高い。
そういう人の理論は、疑似科学である可能性が非常に高い。

類は友を呼ぶ

明らかに疑似科学であるAがあったとして、Aを誉めてたり引用してたりするジャンルBは、疑似科学である可能性が極めて高い。


疑似科学Aに引っかかる客層を取り込もうとしている可能性が高いからだ。


なるべく善意で考えるにしろ、Bは、Aが科学的におかしいことを理解できてないわけで、そういう人の科学的根拠が心配になる、とは言えるだろう。

実例と判断

疑似科学の例として「水からの伝言」を挙げてみよう。
これは、わかりやすく「精神が物質に影響する」と「気が早すぎる」の例だ。


仮に「水が言葉に反応する」と考えたとして、それが正しいかを確かめたければ、様々な条件で様々に検証する必要がある。できるだけ主観が入りにくい形で、多数の実験サンプルを取る必要がある。
「そう期待してやってみたらそうなった気がする」程度では検証にならないし、検証を経ずに、事実として発表するのは、疑似科学だ。


こちらは、物理学者田崎晴明氏による、「水からの伝言」の問題点の指摘。
http://www.gakushuin.ac.jp/~881791/fs/
田崎氏の言ってることには、素人にはわからない専門知識みたいなのは含まれていない。
誰にでもわかる基礎的な原則を応用して「これはおかしい」という話をしており、参考になる*1


さて、今回の記事の発端となった、google adsenseに出てきた、「クラスター水」だ。こちらは、どう判断すればいいだろうか?


クラスター水」自体は、エネルギー保存則には反していない。精神エネルギーが影響するとも書いていない。
きちんとした科学的な手続きを踏んでおらず「気が早い」とは言えるのだが、「学会でも認められてるよ」みたいなことは自称しており、本当にそうなのかどうかを、素人が調べるのは結構難しい。


そういう意味では、少なくとも「水からの伝言」に比べては、疑似科学と判断しにくい。(簡単に判断できるポイントがあったら誰か教えてください)。


私が気づいた点は、「何でもかんでも効く」の、あたりだ。
http://www.o-xyz.com/xyzwater/
例えば、これを読むと、クラスター水は、健康にいい、と、書いてある。
具体的には、ダイエットによくて体力持久力が増して集中力が増して肌が綺麗になって新陳代謝がよくなって……これだけ並ぶと、うさんくさい。


水のクラスターが仮に存在し、粒が小さくなったとして、これだけ全部の効果を一個で発揮できるものだろうか?
ダイエットに良いものが、肌にも良いかはわからないでしょ?


ある記事では、クラスター水では胎児にはたくさんあるが、年を取ると減る、というのも謎だ。胎児の水は母胎からもらうわけで、中年女性でクラスター水が減ってるなら、胎児だって減ってるはずだ。


「他の疑似科学と仲が良い」は、どうだろうか?
クラスター水 波動」で検索してみると、これが、また山のように出てくる。
もちろん、波動の側が、クラスター水を利用しているだけかもしれないが、そうでないかもしれない。


これらのあたりから、少なくとも、私は「かなり怪しい」とは判断できた。

自分で考えるということ

人間は、自分一人の知識であらゆる出来事を判断することはできない。専門家の解釈を信用することが必要になる場面は、ある。


とはいえ、専門家の解釈を信じるにも、様々な段階があり、方法があり、テクニックがある。
どういう時に、どの情報を、どれくらい信じるかが、大切なことだ。


そこについて思いついたことを書いてみた。
結局それも、「望月という人間への信仰」ではないか、と、言われたら、そういう面もあるとしか言いようがない。
要するに、それも程度問題で、私の記事を読者全員が、何も考えずに鵜呑みにしたら大惨事だが、そうはならないだろう。これを読んでくれた人が、色々考える材料になれば、と、思うわけだ。

追記

こちらで言及されていたので。常識+αについては、この記事が答えにはなると思う。
http://d.hatena.ne.jp/magician-of-posthuman/20081120/1227183323

*1:もっとも、そういうのがきちんとできる人が専門家なのだとも言える。

東浩紀のアニメ観が迷惑なわけ

最終更新から二年も経ち、様々に読者も入れ代わってると思うので、昔のエントリから落ち穂拾い。

http://d.hatena.ne.jp/motidukisigeru/20030921#1063904298

作画はマズくて動きも平板でいい

さて、東浩紀氏は、アニメ批評が低調な理由として、読者の質が悪く、ちょっとしたミスを鬼の首でも取ったように非難し、それを見識と勘違いしているような人が多すぎるからだと言った。


では、具体的な、東浩紀のアニメ観を見てみよう。

(望月注:最近の「萌え革命以降のアニメファン」にとっては)
したがって、作画がマズかろうが、動きが平板だろうが、そんなものはアニメを見るうえでまったく障害にならない。彼らは、アニメを見ているようで、実はアニメそのものは見ていない。漫画にしろアニメにしろゲームにしろ、彼らにとっては、脳内に萌の対象を作り出すために必要な情報を引き出す一種のデータベースでしかなくなっているようだ。
ゲームラボ2003年10月号『crypto-survival notes repure

さて、これに突っ込むのが質の悪い読者とやらなら、俺は質の良い読者にはなりたくない。


このコラムは雑誌ファウスト創刊の時の記事なので、「これからはラノベの時代だよ!」という主旨ではあるのだが……。

東浩紀の見識

「作画が悪くても、動いて無くても気にならない」なんてオタクは、いやしない。


確かに世にはアニメ魔神みたいな人がいて、これまで見たあらゆるアニメの構図を覚えていて様々なオマージュを指摘し、一瞥するだけで作監を当てたりする。そのような鬼みたいなオタク、職人的ファンが、昔と比べて減った、あるいは目立たなくなったというのは、あるいは、あるかもしれない。


「だから最近のアニメオタクはダメだ! もっとちゃんとアニメを見ろ」というのを誇張して語るのならまだわかるが、実は、そういう話ですらない。


オタクにとってアニメそれ自体はどうでもよくて、そこに表現された記号しか意味がない、というのなら、「ハルヒ」は、原作小説だけあればいいって話になる。だから、「いまのオタクはアニメの絵そのものを見ていない。脳内補完で記号自体を消費するので、アニメが没落してラノベやノベルゲームの時代が来る」というのが東の主張だ。翌年には、そうなった、と、勝利宣言をしている。

 僕は昨年9月号のこのコラムで、「ファウスト」創刊を取り上げた。僕はそのとき、これからは、アニメがオタク的想像力の中心を占める時代は終わり、ライトノベルとゲームの交差点にある新しいタイプの小説がその位置を占めることになるのではないか、と記している。その予想はほぼ当たっている。
ゲームラボ2004年8月号『メタリアル・クリティーク』

これらが、2003年9月、2004年8月時点での東浩紀氏のアニメに対する見識である。アニメがオタク的想像力の中心を占めた時代は終わっているそうだ。

発言の責任

批評というだけでヒステリーを起こし、くだらない揚げ足取りをするひとばかりが目立つのでは、だれもアニメについて批評なんかしなくなるに決まっている。そもそも悪口は褒め言葉より目立つものです。アニメについてなにか新しく書こうと思ったとき、そのひとが信じられる読者がどれくらいいるのか。アニメ批評の未来はそこにかかっているのではないでしょうか。
http://www.hirokiazuma.com/archives/000460.html

批評家が信じられる読者を求めるのなら、批評家も、読者が信用できる批評家であろうとすべきだろう。


人間は日々変化するものである。思想も立ち位置も過去と変わっていて構わない。
思想や主義、学問について、昔と考えてることが変わったのなら「昔はこう思っていたが、今は、こういう理由で考えを改めた」と言ってゆくことは信用を得るために必要だろう。


東浩紀は、現在、アニメに対して、どのような思想、立ち位置を持っているのだろうか?*1

*1:このへんの発言に、東自身が言及しているものが既にあれば申し訳ない。ご指摘いただければ幸いである。