ハルヒ新作が面白いなぁ

というわけで、「涼宮ハルヒの憂鬱」の小説とアニメの分析。
http://d.hatena.ne.jp/tatsu2/20090523/1243087165
こちら読んで面白かったので触発されて。
あと、こちらも(トラックバックありがとうございます)。
東浩紀終了のお知らせ - 一切余計


まぁ大変に今さら感があると思うが、年単位で更新が滞る日記なので気にしない。
色々周回遅れ、時代遅れな意見だったり、勉強不足による大勘違いなどがあるかもしれないが、そういう部分はフォローをいただけるとありがたい。

長門俺の嫁

さてさて、よく言われるのは「長門俺の嫁」であって、「ハルヒ俺の嫁」は少ない。
まぁネタコピペをもって長門ファンがハルヒファンより多いと断言できるわけではないが、「涼宮ハルヒの憂鬱」の中で、ハルヒは、嫌われやすい不利なポジションにいる。


涼宮ハルヒの憂鬱」の典型的なストーリーは、ハルヒの能力が発動した結果、世界が変化し、問題が生じるというものだ。能力の性質上、ハルヒ本人は問題を自覚できないので、ハルヒ以外のSOS団メンバーが一致協力して事件に当たることになる。


このことの問題点として、ハルヒは自分が他人に迷惑をかけていることに気づかない(気づけない)から当然、感謝やフォローもできないということ。彼女の責任ではないが、一方的に迷惑をかけるだけの女にみえてしまう。
また、ハルヒ以外のメンバーは、ハルヒを抜いて事件をクリアすることで、互いに結束を高めてゆくが、そこにハルヒは関わらない。
涼宮ハルヒの消失」や「笹の葉ラプソディ」で、事件を通じて、キョンは、長門やみくるのこれまで知らなかった一面、それぞれの信念や苦悩に触れてゆくわけだが、その思い出作りの重要な部分にハルヒ本人が絡んでいない。キョン長門やみくるの距離が縮まる一方で、ハルヒとの距離はあまり変わらないわけだ。


さらに、「涼宮ハルヒの憂鬱」は、キョンが一人称の語り部として存在している。
キョンは、ハルヒに対する恋愛感情をあまり認めていないわけだから、ハルヒキョンを意識する仕草をしていても、そういう風に解釈はしない。
「か、勘違いしないでよね!」と言われたら「いやしてないから」というのがキョンなわけだ*1


また意地っ張りなハルヒは、キョンの見えないところで、しおらしかったり意識したりしてるのだろうけれども、それらはキョンには見えないので、当然、語られることもない。


キョン視点というフィルターがかかる
ハルヒが仲間はずれな物語が多い


ハルヒが嫌われやすく「長門俺の嫁」になりやすい構造は、こんなものだろう。
逆に言うと、このへんをちょっと変えれば「すごく可愛いハルヒ」の二次創作が作れる。

キョン」の発明

アニメの第2話(事実上の第一話) 「涼宮ハルヒの憂鬱Ⅰ」の冒頭は、原作と同じように、キョンの語りから始まり、その内容は、一語一句ほぼ変わらない。


「原作を丁寧に扱う京アニ」と言われる所以だが、ちょっと待ってほしい。


小説原作を読んでいた時は、正直、キョンの顔とか覚えていなかった。というより意識していなかった。
一巻の挿絵にはキョンもいるが、ヒロイン陣のほうが数が多くあまり細かい表情はないし、クライマックスのキスシーンでは、表情は影になって消えている。
ここでのキョンの扱いは、読者をスムーズに感情移入させるための視点キャラであり、独自の個性はあまり必要ないわけだ。
いわばギャルゲエロゲの(今となってはかなり古い)テンプレである「長い前髪で目が見えない」系の主人公だ。本心を隠すために言い訳めいたどうでもいいことをグタグタ韜晦するのも、オタクが親近感を覚える定番だ。


そこまで断言せずとも、地の文でキョンが「俺はこういう顔形で、こういう体型で、今、こんな表情をしている〜」などと説明するはずもなく、読者は視点キャラキョンの中から外を見るのであって、キョン本人を見ることはない。できない。
小説に登場する最初の細かい視覚描写は、もちろん、ハルヒのものである。

長くて真っ直ぐな黒い髪にカチューシャつけて、クラス全員の視線を傲然と受け止める顔はこの上なく整った目鼻立ち、意志の強そうな大きくて黒い目を異常に長いまつげが縁取り、薄桃色の唇を固く引き結んだ女。

翻ってアニメのほうは、開始から1分30秒にわたり、キョンの日常描写が続いてゆく。

回想を表すモノトーン。桜吹雪。自転車。自転車に乗っているキョン。降りるキョン。階段を上り登校するキョン。歩くキョンの横顔。よどみなく、自分の過去の鬱屈を語り続けるキョン
どうでもよさそうに歩いてゆくキョン。どこかつまらなそうな、その横顔。坂を上る後ろ姿。


少しだけ、ほんんの少しだけうつむき加減のキョンは、上った坂で、ふと何かを求めるように、誰かを待つように振り返る。どうでもよさそうな顔に、一瞬だけ、憂いが宿る。


……何も来るはずもなく、再び肩を落として歩きだすキョン
かぶさるナレーション。

「宇宙人、未来人、超能力者? そんなのいるわけねぇ。でもちょっといてほしい……」
「みたいな、最大公約数的なことを考えるくらいには、俺も成長したの、さ」

自嘲を帯びつつも、素直な憧れが見える語り。それに気づいたのか、あわてて照れ隠しで達観して見せる。
登校して入学式。

「中学を卒業する頃には、俺はもう、そんなガキな夢を見ることからも卒業して、この世の普通さにもなれていた」

気を取り直した冷静な口調。けれど、さきほどの憂い顔と語りは印象に残っており、どこか取り繕っている印象を与える。そして、その取り繕いは、最終的にハルヒによって破壊されるわけだ。


一連の動きの丁寧な描写と、声優、杉田智和の本当に絶妙な語りが相まって、ここで視聴者はキョンというキャラクターを発見する。印象づけられる。


小説における一人称語り部視点のキョンとは違い、アニメにおいては、このように視聴者はキョンというキャラクターを外から観察する。キョンの語りのテキストは、その声と表情に裏切られ、裏付けられ、多面的な性格として作り上げられてゆく。


小説をアニメ化したら、そりゃ主人公の顔も出るし、しゃべるだろうというのは確かだが、ここにはもちろん明確な演出意図があるだろう*2


キョン視点というフィルターがかかる」問題に対して、キョンというキャラクターを、感情移入する主人公であると同時に、客体として印象づけることで、解決を図っているわけだ*3

作画とは何か

と、長くなった。
アニメのハルヒキョンは良い、ってのは、今さらすぎる話だろうが、少しだけ細かく書いてみた*4


俺の素直な感想は「あ、アニメのハルヒ、すげー可愛い」というものだった。


純化していうのなら、そのような印象を与えるために、上記のような手法が検討され、それにそって演出が組み立てられ、作画が行われる。
「可愛いハルヒ」という印象を与えるために「キョンの客体化」という目的が設定され、それによって、どのようなレイアウトのどんなカットが必要かが計算され、そのために、動きが、ある時は丁寧に、ある時は強調され、ある時は省略される。


個々の作画には、そうした無数の意図がある。無数の意図に対応する、無数の演出があり、その積み重ねが感動を生む。
オーケストラの全ての楽器を聞き分けられずとも、その全体を聞いて大きく心を揺さぶられるように、視聴者は、作画の演出意図のほとんどを、直接意識しないまま、影響を、感銘を受けるわけだ。


あるいは、また、ハルヒキョンというキャラクターを小説からアニメへ移し替えるには、並々ならぬ努力と創意工夫が存在している、とも言えるだろう*5

貧困な批評

驚くべきは、批評家の中にも、そうした豊かさに全く気づかない人間がいることだ。

したがって、作画がマズかろうが、動きが平板だろうが、そんなものはアニメを見るうえでまったく障害にならない。彼らは、アニメを見ているようで、実はアニメそのものは見ていない。漫画にしろアニメにしろゲームにしろ、彼らにとっては、脳内に萌の対象を作り出すために必要な情報を引き出す一種のデータベースでしかなくなっているようだ。
ゲームラボ2003年10月号『crypto-survival notes repure
東浩紀

本日記では三度目の引用になるが、本当に突っ込みどころが多い文章である*6


作画がマズくて動きが平板なハルヒは、京アニは、人気を得られただろうか?


そもそも「作画がいい」「動きがいい」という感想は、それらが総体として生み出す感動への賛辞であって、単に「絵がうまい」「細かく動きを割っている」という以上の意味があるだろう。


「アニメを見ているようでアニメそのものは見ていない」なんて器用なことはできるだろうか?
俺は音楽は素人で、鼻歌で歌おうとすると、主旋律やボーカルしかでてこないような人間だ。音楽を「記号的に」消費してる人間と言ってもいいかもしれない。
だけど、曲自体を聴いてる時は、そりゃ曲全体から印象を受ける。うまいドラムやベースで高揚するし、ドラムがリズム狂ってたら乗れない。


アニメだってそういうものだ。細かい工夫は言われないとわからないかもしれないが、「下手な作画を無視して記号だけ消費する」のは、常人にはできない。


記号。記号。
猫耳を記号と呼ぶのは勝手だ。
ただ、当たり前の話だが、同じ猫耳でも、素晴らしい猫耳とそうでもない猫耳がある。
前者に出会った時の感動や、それを成立させるための努力に思いを馳せずに、「ネコミミの消費」だけを語るほど貧しいことはない。

追記

コメント欄で、tomezouさんからご指摘いただいた。
東氏が、ポストモダン的な心性・社会性を分析するために、作品の受容のされ方を分析する時、それらは当然、個々の作品ではなくて、それらを成立させている背後の環境・流通・消費形式への分析に向かうわけである。


その意味では、東氏の批評が「ネコミミの消費だけを語る」ことになる点は正当化されるだろう。
前項の文章は、望月の勇み足であった。


それを踏まえて、東氏の姿勢に問題を感じる部分はあるが、それについては整理して、項目を変えようと思う。

*1:実際にはキョンはそこまで朴念仁ではなく、ハルヒへの自分の気持ち、ハルヒの自分への気持ちをそれなりに理解したわけで、口先だけで韜晦しているわけだ。語り手がツンデレと言ってもいいだろう。そこを深読みしてゆくのが面白いわけだが

*2:演出意図というのは、例えば監督個人が明確に明文化して周知するものもあれば、制作過程中に自然発生するようなものもあり、多くのものは、その中間だろうが、ここではそれらは区別しない。いや、ここで俺が書いたような初歩的なレベルの話を、現場が意識してないことはないと思いますが。

*3:このへんは、プレイヤーが能動的であり主人公がプレイヤーの延長で、結果マルチエンディングとなるノベルゲームを、視聴者は受動的で主人公が視聴者から独立して一つのエンディングを選び取るアニメに翻案する問題とも関わるだろう。「Kanon」、「Air」、「CLANNAD」の演出とも見比べてみたい

*4:ハルヒが仲間はずれな物語が多い」のほうも、第1期のエピソード選択やオリジナルエピソードである「サムデイ イン ザ レイン」の内容から分析できそうだが、今、一話から見返してるところなので、また今度。

*5:アニメばっか持ち上げてるが、もちろん小説には小説の、様々な手法演出創意工夫が存在している

*6:執念深いと思われる向きもあるかもしれないが、東浩紀氏が、この過去の発言をどう位置づけるかを俺は知りたい。こういう発言をそのまま放置しながら、アニメ批評を語り、山本寛氏と対談するのは、批評家として誠実とは言えないだろう。まぁ東氏が黒歴史にしたいのであれば掘り返すのも意地が悪いかもしれないが、東氏は相変わらず、ことあるごとに「オタクは記号だけで消費してる」的な物言いを繰り返すので、頭が痛い

集団が壊れる時

たとえばブラック企業の話とか

みんな好きだよね。俺も好きです。好きというと言葉が悪いかもしれない。


様々な意味で現場がぶっ壊れていて、現実が見えなくなった理不尽な指示が飛んで、それを現場が裁量で埋めることになり、結果、やることがどんどん犯罪に近づき、時には犯罪そのものになり、その過程で人が傷ついてゆく。


そういう状況の中にいると、「それが当然」という錯覚に陥ることもある。
ストレスで死にかけることもある一方で、またそのストレスで誰かを傷つける側に回ることもある。
必ずしも悪人らしい悪人がいるわけではなくて(いる時もあるけど)、様々な原因が絡み合って、色々な悪循環を生み出してゆく集団。


そういう状況は、人間が生きてる限り、どこの国でも、どういう集団でもあったと思う。


そういうブラック企業にあっても、カッコイイことを言って、ぴしっとスジを通す先輩とかがいたりして、それに憧れる時もある。自分もそうできたらいいなと思う。
でも、実際、その状況で、できるかどうかはわからない。そんなことは断言できない。むしろ、自分が弱いもの虐めに回る可能性だって大きいだろう。

たとえば戦争だったら

集団で何かを実行する際の大きな例として、戦争というのがある。
集団というのは、多かれ少なかれ人間を部品として扱うわけだが、特に戦争は、それが大きい。
なにしろ、人が死ぬことが前提だから、「壊れても取り替えられる」部品にしないと軍隊は成立しえない。
・人を殺す
・自分が死ぬ
・消耗品扱いされる
これだけ要因が揃うわけだから、もちろんストレスは大きい。


平和に生きてる俺が想像するところでは、戦争中の軍隊は、ブラック企業の親玉みたいなものだろう。
こういう言い方は、まっとうな軍人さんや自衛隊員の方に失礼だろうから言い替えるなら、戦争という極限状態の中では様々な訓練や志で自分を鍛え抜いた人だって、壊れかねない、そういう過酷な状況だろう。


要するに、給料遅配したところで直接死ぬわけじゃないし、しようと思えば出社拒否も退職もできる民間企業だって、十分に人間が壊れるくらい、えげつないことはいくらでも起きるんだから、もっと逃げ場が無くて生死の境にある戦争状況だったら、もっとえぐいことが起きてもおかしくないとは思うわけだ。

たとえば俺が

たとえば、俺が軍隊に徴兵されて戦地に送られたとして。
掠奪や強姦、捕虜の虐殺などはいけないという常識があったとして。


一方で「国のためにあいつらを殺せ」と言われて、そいつらを自分の手で殺したり、またそいつらが俺達を殺そうとして向かってくる状況で、「でも民間人や捕虜は丁寧に扱うように」というのをきちんと守れるかは、かなり自信がない。友人が戦争中に、敵国で敵兵に殺されたとして、客観的に見れば恨む筋合いは全く無いんだけど、でも恨んじゃうだろう。


まして、戦況があんまり芳しくなくて、ご飯や給料が少ない上に、毎日えらい距離を歩かされて足のまめがつぶれまくって、始終お腹が空いてて怒りっぽくなってるとしたら、そりゃ八つ当たりもしたくなるだろう。


仮にすげー自制心を発揮して守れたとしても、同じ軍の仲間が、掠奪や虐待するのを「おい、やめろ」というのは、さらにものすごい勇気が必要だろうし、自分の上官だったら逆らうのはもっと大変だ。
そういう中にいれば、どんどん感覚は鈍るだろうし、そのうち自分も平気でやるようになったとしても驚かない。
もしかしたら悪いことする前に耐えきれず自殺するかもしれないが、じゃぁ、それが何かを改善するかというと、そうはゆかないだろう。
だって友人が自殺したら、敵国の人間に優しくできるかというと難しいよね。むしろ、イヤな気持ち、どす黒い気持ちになってさらに八つ当たりしそうだ。

たとえば俺の爺さんとかが

戦争にいって、よその国で、えげつないことを一杯してたとして、俺ならそんなことをしなかったとは、全く断言できない。だから、その意味で、それを責める気はしない。
「大変だったんだろうね」と思う。


普通の健全な中小企業が、不況やら親会社の方針変更やらの、ちょっとした影響で、ボタンをかけちがって、その結果、どんどん悲惨なことになってブラックな環境になってゆくことがよくある。
社長さんが、もうちょっと頑張ればなんとかなっていたかもしれないけど、まぁその上で社長さんも苦労した上で転落していたとしたら、安直に責める気はしない。


それと同じように、帝国主義、世界大戦という流れの中にあって、国が、個人が、ブラックな状況に追い詰められることは、ある意味、避けられない部分があっただろう。
様々な国で努力次第で、もっと良い結果を生むことはもちろんできたとはもちろん思うけれど(だから無批判にあれはしかたがなかったというのは良くないけど)、一方で、その当時の人達が、良くも悪くも精一杯頑張った結果でもあるのだろう。
俺だったら、もっとうまくできた! とはちょっと言えない。


もちろん、戦争が極限状態といっても、比較的、楽な戦場もあれば、大変な戦場もあっただろう。
「経済」というのが生き物で好況の中にもブラック企業が存在するように、「戦争」という生き物の中で、全体的には勝ち戦であっても、あちこちにブラックな極限状況は発生する。もちろん、不況、負け戦になれば、どんどん増える。

今度はもう少しうまくやろう

時折、たとえば、日本軍の蛮行を過剰に否定する人がいる。
そういう人達は、多分、自分と自分のお爺さんが好きで、その人達が、そんなひどいことをしたと言われるのが耐えられないんじゃないか、と、思う。


でもまぁ、戦争という極限状況の中で、さらにえげつない極限状態が発生することを前提に想像してみると、その中で常に規律正しく澄んだ心で、分け隔て無く、人として当然のことを行うのが当たり前だった、と決めつけるのは逆の意味でよくないと思う。
だって自分がそういう極限状態に置かれた時に「自分を殺しに来る敵国の人に対して公平で優しく」を実行するのが当然、と、言われることを考えて見たら、それが、無茶で残酷な要求であることは分かるだろう。


俺という人間には限界がある。なるべく良い人間でいたいけど、ある程度以上、追い詰められれば、きっと壊れる。悪いこともしちゃう。あなたもそうだろう。
だから、大切なのは、追い詰められないためには、どうしたらいいか、だ。


爺ちゃんが悪いことをしたとかしなかったというよりも、そこまで追い詰められたのは何故で、どうやったら次は、もっとうまくやれるかを考えることだ。

自分と爺ちゃんとその外の広がり

爺ちゃんの立場を想像して、「俺だって、そうしたかもしれないし、安直には責められない」とは書いたけど、もちろん戦争には相手もいるわけだから、それも忘れちゃいけない。
「俺個人は責められない」とは書いたが、それは俺個人の話であって「誰にとっても許されてしかるべきだ」なんて話じゃぁない。


何が起きたかという事実の吟味も勿論大切だけど、時折、普通の社会の常識だけで戦場で起きた出来事を判断しようとしている人がいる。「こんな非合理的なことは有り得ない」という議論だ。
追い詰められた人間は色々無茶をする、というのと、戦争ってのは人間を追い詰める、という前提は、大切にしたほうがいい。


そもそも戦争をする、というのは、国からしてみれば、大量の投資だ。勝てば儲かる場合もあるが、勝ち切るまでは大浪費の大ばくちだ。それに戦争で国の景気が良くなったとしても、前線の兵隊さん達の暮らしの質が高いかは全く別問題だ。もちろん負け戦なら、さらに悲惨なことになる。


そこまでいかなくても、平和な今の日本の会社で考えて見たって、そんなに合理的、明白にはできていない。
例えば就業時間と残業手当が、実体と完全に一致してる会社なんて少ないんじゃなかろか。ファンタジーな労働時間申告書かされて、もやもやしてる人も多いだろう。タイムカードがあっても、それがいい加減に押されてる場合も多い。
なんでそうなったかというと、なんとなーくの空気による上意下達だったり、ノルマの辻褄を合わせるために(建前上)自発的だったりするわけで、別に「会社ぐるみの労働時間隠蔽」なんていう方針が明確にあるわけではなく、ましてやそれを命令する「文書」があるわけでもない。汚職や、グレーゾーンのことをする時も一緒だろう。明確な意志を持って悪いことする時もあるけれど、ぐだぐだの中で、なあなあで進んだ結果、一線を踏み越えるというのもよくある話だ。


日本軍も(あるいはどこの国の軍隊も)、ぐだぐだなことをする時は、そういう流れで起きたものだというのを考え合わせる必要がある。

俺なりの要約〜「歴史=物語」の倫理学〜

http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20081218/p1
これを読んで色々考えている。以下、今、俺が理解できた範囲内での要約。


人間は全部の事実を完全に知ることはできないし、その不完全な事実をどうまとめるかは人それぞれ。そこには様々な意図や政治はどうしても入る。
そういう意味では要約された「歴史」は「物語」だ。「物語」にしてしまうことで、事実を歪めたり矮小化しちゃうことに対する、怖れ、畏れはある。
だけど、「物語になっちゃうから何も言わない」というのも「物語なんだから、何言ってもOK」というのも、どっちも違うよね。


的外れなとことか、要約から漏れてる重大な論点とか、沢山あるだろうけど、自分メモとして。ツッコミ歓迎。

島宇宙ってなんだろう? あるいは程度問題

大勢って、どれくらい大勢?

http://blog.sakichan.org/ja/2008/12/15/not_issues_on_the_interpretation_of_hist#comments

Apeman氏が「スルーせずに批判すること」を繰り返しても、社会の中で影響される人はいるかもしれないが、俯瞰してみれば、大勢に影響はない。島宇宙的な共存関係を壊すようなものではない。
(中略)
島宇宙化した人々の関心をかつてのように特定少数のものに集まるように取り戻す、というのもないではないが、それはおそらく不可能に近いぐらい困難なことだろうし、現在東氏を批判している面々がそういう方向をめざしているようにもみえない。

人々の関心が島宇宙化して、関心、興味が分散している、という話がある。


さて、島宇宙化というのは、まぁ、様々な方面において、様々な度合いで定義できるだろう。


みんな、それなりに気にしてるものもあり(例:物価。賃金)、一部の人の興味しか引かないものもあるだろう(例:深夜アニメ)。


なのだが、ある種の人達は「島宇宙化してるから、何を言っても大勢で変わらない」という。
ほんとに? そうなの? 誰が何を言っても大勢は変わらないの?


私は違うと思う。

単なるニヒリズム

「どうせ何か言っても大勢では変わらないさ」ってのは、単なるニヒリズムである。


一人の発言の影響力は、必ずしも大きくはないが、世の中は、その小さな発言が集まって、大きな流れを作っている。


ま、もちろん、深夜アニメの作画について熱く語っても、ごく一部にしか影響はないし、それはそれで構わないんだが*1、社会問題は、みんなに影響するだろう?


単純な話、南京虐殺事件否定をする人が大声を出した結果、現在の流れがある。否定を批判せず、放置すれば、否定に傾く人は、より多くなるだろう。「中立」を装って、歴史修整主義に肩入れするのも、また同じ。

程度問題

このブログで何度も何度も何度も書いているが、全ては程度問題だ。バランスだ。具体的な数字と力の配分だ。
島宇宙」という言葉で、程度問題を一切無視して、「何を言っても大勢で変わらない」とする立場は、私は、単なる無責任であると思う。


 また、その無責任の結果が、歴史修整主義を容認する発言となるなら、それは社会に対して迷惑をかけているから、やめてくれ、と、言いたいし、それを「ポストモダンはこういうものだからこれでいいんだ」と崎山さんが言うのなら、それも「やめてくれ」ということになる。


 人々の関心が、分散傾向に向かっている、という趨勢自体は、そう簡単には止められないだろう*2。無理に止める必要もないと思う。俺が「百舌谷さん逆上する」が面白いと思っていて、そのことがあなたにとってどうでもいい、ということはあるだろう。


 ただし、人間は、ごはん食べて、働いて、セックスして、子供産んで、寝る生き物だ。根っこのところで絶対無視できない問題はある。


 私は思う。
 例えば、南京虐殺事件否定を信じる人の割合が、日本人の10%だとして*3、それが11%や9%になることはあると思う。
 そして、その11%か9%かで、戦争が回避できたり、できなかったりするかもしれない。
 それによって日本の歴史は大きく変わるかもしれない。
 であるなら、それは私にとって非常に大切な問題で、あなたにとってもそうだろう。
 それ故に、私は、日本という国が無事であることを願って努力し、発言する。あなたもきっと、そうじゃないかと思う。


 それらを「俯瞰してみれば、大勢に影響はない」という立場に立とうとするのは、大きな傲慢だ。

*1:この日記は、主に、アニメとかラノベとかオタク趣味の話をしているが、そうしたニッチな話題であっても、発言次第で一般社会からの見られ方は変わってくるし、それは良い影響も悪い影響ももっている。が、とりあえず、それはさておき

*2:とはいえ、戦争でも起きれば、あっという間に、まとまるだろう

*3:10%云々は、特に根拠はない。もっと言うなら「どちらとも言えない」「難しくてわからない」層の割合が一番重要だろうという気もする

絶対的真実は問題にしていない

崎山氏の東浩紀擁護

http://blog.sakichan.org/ja/2008/12/14/on_attacks_against_hiroki_azuma
・「絶対的真実」は存在しない
言論の自由は大切
南京大虐殺否定論でも、存在する意味はある。
・それらを認めないと、弾圧が起きうる。


どれも賛成ですし、否定したこともありません。
問題は、バランスなのです。

東氏は何と言ったか?

東氏が「明らかに間違った歴史修整主義であっても、完全に排除するのはよくない」と言ってるのであれば、誰も反論しないでしょう。
問題は、東氏が、「明らかに間違った歴史修整主義」とは言っていない点にあります。

当たり前ですけど、政治的判断は一般に伝聞情報によって下される。ある事件について、本当に何が起こったかを自分の力で確かめられる人間は常に少数です。それなのに、膨大な情報だけはネットで簡単に手に入る。そのなかで、左翼は自分に都合のよい情報をネットで集め、右翼も同じことをする。

 ぼくたちがいるのはそういう環境です。そういうなかで、「政治」的な論争だと思われているものの多くは、完全に伝聞情報というか、一群の書籍のうえに組み立てられた解釈の争いにすぎない。そこからは、何ら科学的真理は出てこないし、新しい知見も出てこない。そういうことがすごく多い。

(リアルのゆくえ)

けれども、南京についてはそんな思いは残らない。だから、ぼくは転向するかもしれない。それは弱さだけれども、しかし、南京まで出向いたあげく、ぼくの心のなかにそういう差異が生まれたことは否定できない。
(中略)
ネットだけで「歴史の真実性」について叫んでいるひとを見ると、やはり(デリディアンとしてこんなことは言いたくないけど)、文字情報の相対性や弱さに単純に無自覚なように見えてならない。「リアルのゆくえ」でぼくがいったのは、そんなふうに文字情報ばかりで構成された世界観など、文字情報によってすぐひっくりかえるのだから、少しはみな自重したほうがいいのではないか、ということです。

歴史認識問題についていくつか)
http://www.hirokiazuma.com/archives/000465.html

一方に慰安婦はいたと怒っている人がいて、他方に慰安婦は存在しないと主張している人がいる。ぼくに、というか、たいていの人にわかるのは、そういう両者がいるという事実だけであり、あとはそこから出発して、日本という国家に最適なのはどのような選択なのか合理的に粛々と考えるしかない。

(『思想地図 Vol.1』)
これらのエントリーを見ると、東氏は、南京虐殺問題について(そして従軍慰安婦についても)「専門家にはともかく、素人には判断が不可能で解釈が分かれる問題」と主張したいようにしか見えない。


どうせ、反対派と賛成派がいて、何をかけても水掛け論なのだから、専門的な事実の追求など無視して、政治的にだけ行動すればいい、というスタンスだ*1


私が批判しているのは、そこであって、それ以外ではない。
既に正しさが確立され、積み重ねられてきた問題について、「素人にはどうせむずかしくてわからない」ことに差し戻すのは、歴史修整主義そのものだ。


普通に事実を集めて理解し、それを広めることで、反対派を全部無くすことはできないし、その必要もないが、一定の理解を得て増やしてゆくことはできるし、そうすべきだ。
事実に当たりもしないで「どうせ調べたってわからないから、あとは政治」という態度を取ることは、好きじゃないし、また、社会全体にとってもよろしくないと思う。


崎山氏は、これについてどう思いますか?


南京虐殺問題、従軍慰安婦問題について「ぼくに、というか、たいていの人にわかるのは、そういう両者がいるという事実だけであり、あとはそこから出発して、日本という国家に最適なのはどのような選択なのか合理的に粛々と考えるしかない」と思われますか?

追記

崎山さんの記事に、トラックバックを送って、一度、保留になったが、現在は消されているようだ。操作ミスであったら、再度お送りしますので、お知らせください。

http://blog.sakichan.org/ja/2008/12/15/not_issues_on_the_interpretation_of_hist

新しくでた記事だが、こちらについて、東氏の南京虐殺に関する記述が、当人は「単なる例」のつもりであっても、「単なる例」にとどまらない、歴史修整主義に利する記述になってることを問題にしている。

聞く人の気持ちを考えよう

原爆は落ちてない

例えば、どっかの国で、「原爆なんかホントは落ちてない」「落ちたけど、すげー人が死んだってのは日本人のでっちあげ」という話が出てきた、としよう。


日本人として、あるいは個人として、そういうことを言う人に対しては、控えめにいって、かなり不愉快な気持になる。


また、それに対して「絶対の真実などないから、原爆否定論にも耳を傾けよう」という人がいたら、理屈ではわかるにせよ、不愉快な気持にはなってしまう。それが重要な論点で、どうしても言う必要があるのなら分かるけど、さしたる必要もないなら持ち出してほしくはない。


「俺は、ちゃんと原爆の現場見て来たんだぜ。広島の原爆ドーム見たら実感あったけど、長崎原爆資料館は、あんまり実感なかったね。ひょっとしたら長崎の原爆は落ちて無かったって転向するかも。それが俺の「真実」」と書いていたら。


俺は殺意が湧く。


南京虐殺否定論について、安易に議論の例に持ち出されることを、不愉快に感じる人がいる。
その不愉快さがどれほどかは、わからない。わからないが、例えば、上記の例で、少しでも察することはできるのではないか*1*2

誠意は大切

別に「気持」を聖域にするつもりはない。
学問的な議論を行う時には、あらゆる可能性を考える必要がある。いやなこと、聞きたくないこと、えげつないことも、全部、きちんと考え、議論する必要がある。感傷を排除する必要がある場合もある。
そういう文脈では、一般人としては傷つくけど、学問としては必要な議論というのも沢山あるだろう。


ただ、そういう必然性のある議論には、どうしても思えない。

A.いまの日本社会に、南京大虐殺があったと断言するひとと、なかったと断言するひとがそれぞれかなりのボリュームでいるのは事実である(この場合の南京大虐殺は例)。

B.ポストモダニズム系リベラルの理論家は、「公共空間の言論は開かれていて絶対的真実はない」と随所で主張している。

C.だとすれば。ポストモダニズム系リベラルは、たとえその信条が私的にどれほど許し難かったとしても、南京大虐殺がなかったと断言するひとの声に耳を傾ける、少なくともその声に場所を与える必要があるはずである(この場合の「耳を傾ける」=「同意する」ではない)。

C'.逆に、もし「南京大虐殺がなかったと考えるなどとんでもない」と鼻から言うのであれば、そのひとはもはやポストモダニズム系リベラルの名に値しない。

C''. むろん、上記の主張は、右と左を入れ替えても言える。

D.ポストモダニズムリベラリズムの立場とは、このようにハードで、ときに自己矛盾を抱えかねないものなのだ。

「例」と言うけれど、安易に例にすること自体、大きな問題なんだよ。自己矛盾を強調したいのならさ、自分が一番痛い話にすればいいじゃん。


どうせ「絶対の真実などない」ことが前提なんだから、それこそ「原爆否定論」だっていいだろう。それでなくても、日本として痛い事実は幾らでもあるだろう。


さらに「実感」とやらを語りだす。
そういう実感を持つのは別に、いいんだが、その実感を安直に表明することは、どれだけ多くの人を傷つけるか、どれだけ失礼なことか、どれだけ不誠実なことか。


その不誠実は、少なくとも、「真実に興味があるなら来てみろ」と言われて、授業に行った人の比ではない、と、思うのだが。

*1:このエントリで、東氏を批判するために原爆の例を出したことで不愉快に感じた人には本当にごめんなさい

*2:原爆投下と、南京虐殺は、様々な点で違うものであり、単純に同一視することは両方の関係者に対して失礼ではあると思います。その点については申し訳ない。ただ、人間は誰かの気持ちを思い描く時、どうしても自分の経験を基点にしてしまう生き物だと思います。同じ気持ち、同じ悲しみなどないことを十分自覚した上で、相手の気持ちを察しようとする限りにおいては、こうした比較許していただけるのではないかと思います。

結果を考えて物を言おう

前提

文字情報ばかりといえば、はてなブログでは、ぼくが公認してもいない速記の断片的引用ばかりがコピーされ「東浩紀、許さん!」とか言われているらしいのだけど、上記のように、ぼくからすればそれは授業の内容についても僕の立場についても明らかに誤解している。そもそも、そんなに真実が大事だと思うのならば、そのかたがたは実際にぼくの授業に来て質問したらいいのではないでしょうか。
http://www.hirokiazuma.com/archives/000465.html

と、いう記事があった。


さて、大学というのは、結構、学生以外や関係ない授業も入れてもらえるものだけど、全然知らない人のとこに勝手におしかけるのは、よろしくない。
行くのも授業を聴講するのが前提であって、授業と関係ない話をしにゆくとなったら、これは問題だ。
授業の流れとかがわからない中で、「そーいえば、ブログの話ですけど」という質問をしたら迷惑だろう。


まぁそう考えてゆくのを遠慮していた。そうしていたら。

結局、東工大の授業に歴史認識問題を問いただす学生などだれひとり現れず、それどころか先週はいたゼロアカ生さえすっかり消え、いささか拍子抜けした東浩紀です。

つまりは、あいつらにとっては東浩紀はネタでしかないんだよなあ、とあらためてコミュニケーション志向社会の現実に思いを馳せてしまったりしました。
http://www.hirokiazuma.com/archives/000466.html

こんなことを書かれたので。
え、行っていいの? 本気なんだね?
と思ったわけだが(いや俺は行かなかったけど)。

結果

http://www.hirokiazuma.com/archives/000470.html
http://d.hatena.ne.jp/buyobuyo/20081212/p4
http://d.hatena.ne.jp/toled/20081213
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20081213/p1
まぁ読んでください。


さて現場にいなかった人間として、細かい事実関係や真偽等はわからない。


でもさぁ、普通に考えて、前提のところに書いてあるようなことをしたら、人が来ておかしくないよね。
その人達は、東浩紀氏の意見の反対者なわけで、また、東浩紀氏も、そうしたネットの発言者のことを批判しているわけで、すっごい好意的な人と和気藹々という展開は望めないことは確かだろう。


事実関係について東氏の記事だけを採用したとしても、この対応、この結果は、あまりにも幼稚すぎないだろうか?


呼んだ相手が来たなら、受け入れるべきだろう。
いきなり来てほしくないなら、そういう告知をすべきだろう。
そもそも来てほしくないなら、挑発しないべきだろう。


誰でも予想できるトラブルが起きたことに逆ギレするのは、かなりどうかと思う。