第1章 オタクたちの疑似日本

 というのも、オタクたちが生み出した「日本的」な表現や主題は、じつはすべてアメリカ産の材料で作られた、二次的で奇形なものだからだ。

 利口ぶるバカが書く文章には、いくつか典型がある。その一つは、何にでも当てはまるような大ざっぱな一般論から、適宜言いたいことを引っ張り出す場合である。
 良心的な文章であれば、「一般論の適用範囲」と「例の選び方」を考える。

 さて、この章では、オタク系文化の源流は、戦後のアメリカである、とし、それに対するコンプレックスで、オタク文化には疑似日本的なモチーフがちりばめられている、とある。

 で。日本が戦後、アメリカの影響を受けていることは確かだ。今の日本人が考える日本文化には、「疑似日本」的なものが多いのは確かだ。
 オタクアニメに限らず、お正月だろうが七五三だろうがマックのテリヤキバーガーだろうが、あらゆるものは「疑似日本的な」ものであると言えるだろう。
 つまり、これは「何にでも当てはまるような大ざっぱな一般論」なので、論を具体的にするために、適用範囲をきっちり定めておく必要がある。

 この章であげられた「疑似日本」の中には、「うる星やつら」や「セーラームーン」の巫女モチーフなどがあるが、その他にも「ナデシコ」の「右翼的な精神性」が挙げられている。
 そんなものまで「日本的」に含めるなら、日本人が作る物語は、全部、日本的だろ。
 適用範囲をきちんと定めていない例である。

 逆に、欠けているものもある。

 東は「セイバーマリオネットJ」を例に、「八〇年代のナルシスティックな日本が、もし敗戦を忘れ、アメリカの影響を忘れようとするのならば、江戸時代のイメージへ戻るのがもっともたやすい」と書いているが、そもそもオタク的な疑似日本について語るなら、「太正時代」は欠かせないだろう。

 これらの例示は、オタク文化を代表させる意味がある。であれば、オタク文化に影響力の大きい作品を挙げねば意味がない。
 「サクラ大戦」を無視して、「セイバーマリオネットJ」を挙げているようでは、結論が先にあって、適当に作品を選んでいる、と言われても仕方ないだろう。

 また東史観によると、アニメには、フル・アニメを志向する宮崎・高畑と、リミテッドアニメの美学を追求する、富野・りんたろう他の二つの流れがあり、「この後者の流れこそが、八〇年代、日本アニメをオタク系文化の中核に押し上げ」たそうである。

 なぜ、リミテッドアニメにこだわるかというと、「アメリカに対する圧倒的な劣位を反転させ、その劣位こそが優位だと言い募る欲望」があるからだそうだ。

 そういうアメリカへのトラウマがオタクの根本なのであって、素直に物量でフルアニメを目指すのは、オタクではないらしい。

 つまり。東史観では、劇場版「風の谷のナウシカ」は、オタク系文化の中核ではない、ということになる。当然、エヴァ庵野が作画した巨神兵の融解も違うわけだ。「アキラ」の鉄雄のニュルニュルもオタク系文化に寄与してないらしい。

 いや、それじゃ、だめだろ。例の選び方が、あまりに恣意的である。

 要するに、この章は、「アメリカの占領による文化断絶が、日本におけるポストモダンを形作った」という結論があって、それに合わせて、適当に例を集めているのだ。だから、「太正」も「巨神兵」も無視される。

 フルアニメな巨神兵は存在しちゃいけないし、ハイカラな「太正」は「江戸」でなきゃだめなのだ。

 確かに、今の日本人が思う日本は、疑似日本だし、アメリカの占領はトラウマだろう。それらは日本人の全てに影響を及ぼしているし、オタク文化に対する影響もゼロではない。

 ただ、「ゼロではない」と言うだけの言論には意味がない。具体的に、どれだけ大きいのか? 他の分野と比べてどうなのか? ある現象をそれで説明できるとして、もっと簡単に説明できないのか? そうした検証が重要となる。

 少なくとも俺は、宮崎と「ナウシカ」を無視しないと成り立たないような、「ポストモダン」は、仮説の構築に無理があると考える。